最高裁に助けを求める
当然のことながら、第1審で勝訴したけれど、控訴されて、逆転敗訴となることもあります。
逆の場合もあり、訴訟代理人である弁護士も、素朴に、狼狽えたり、喜んだりするわけです。
もっとも、その場合、三審制という制度において、第1審の誤りを是正する立場にある控訴審の合議メンバーである裁判官らが話し合った結果、逆転させたのだから、第1審の裁判官は間違った判断をしていたのでしょう、などとは言い切れないのが実際です。
もちろん、新たな証拠が提出されたり、法律の解釈の違いがあったということで、控訴審が正しいという場合もあるでしょう。
また、そもそも第1審の裁判官の考えが、論外ということもあります(「ウッカリ勝ってしまった!!」と裁判官以外は皆ビックリ)。
しかし、そのような場合ばかりではない、そんな場面を考えてみたいと思います。
分かりやすくするため、極端な局面を挙げると、控訴審の裁判官の方が、第1審の裁判官よりも優秀とは限らないということです。大まかにいえば、構成する裁判官らはその立場ごとですが(裁判長-右陪席-左陪席)、控訴審の裁判官の方が、第1審の裁判官より、世代が上・年期が長いです。しかし、世代の差の分時間が経った将来、第1審の裁判官の方が、その時期の控訴審の裁判官よりも上のポストにいるという潜在する能力があるかも知れないのです。ちなみん、現場である裁判所での異動をみても、札幌高裁の裁判長が、次に新潟地方裁判所の所長となり、次に東京高裁の裁判長となるといった異動もあるのです(裁判官の裁判実務以外の、最高裁調査官、最高裁事務総局の幹部(充て判)と司法研修所の教官といったポストも絡み合わせると、いささか難しい話となってきます(西川伸一「最高裁の司法行政部門を知ろう」))。
さて、本論です。次のような設例はいかがでしょう。
モデルになった事案の、個別の争点は切り捨て、枠組みでの問題だけを取り上げる設例で考えてみます(その背景に窺われる複雑骨折の臭いは残るかも知れません)。モデルは、私は、第1審、控訴審いずれも担当しておらず、上告受理申立て以降に担当した事案です。事実審での攻撃防御での苦労は全く体験しておらず、主に訴訟記録ばかりで対応したもので、あくまで当事者の立場ではありますが、いささか裁判所的視点で中立的に見ることができたのではないかとも思わっています(それでも、個別の争点については、到底信じがたい経験則の適用がされているのですが、ここでは、そういった具体的判断の是非は一切捨象し、枠組みでの問題に徹しており、ほぼ架空の例と考えていただいてよろしいかと考えます。)。
1 さて、控訴審が始まって早々、控訴・被控訴人側それぞれが個別に呼ばれ、被控訴人の訴訟代理人は、裁判官(左陪席が受命裁判官としてひとりで担当)から、控訴裁判所としては、逆の結論を出す可能性が高いと考えていると告知されました。
そして、その後の審理は、この心証を踏まえていると思われる訴訟指揮で続けられ、控訴人勝訴を前提とする和解を進められたが決裂。弁論が終結しました。
被控訴人代理人は、被控訴人本人から預かっていた関係資料の整理を始めました。すると、何と、その中に担当裁判官から被控訴人の弱点と指摘した正にそのことを覆すことができそうな文書・準文書が見つかったのです。
被控訴人代理人は、その文書・準文書を新証拠として提出して、証拠調べをしてもらおうと、裁判所に弁論の再開を申し立てました。
ところが、控訴審は、弁論を再開しないまま、第1審が根拠とした証拠の判断を覆し、第1審の結論を逆転する判決を言い渡しました。
弁論を再開しないまま言い渡された控訴審の判決は、次のとおり説示しています。
「被控訴人が主張するように亡○○がインターネットで資料を探して本件契約書を作成したというのであれば、これに用いたパソコンに保管されたデータが有力な証拠方法となり得る。ところが、被控訴人はこれを提出せず、かえって当該パソコンを廃棄していることからすると、被控訴人の主張を裏付けるデータが存在するとみることは困難である。」
「(なお、被控訴人は本件の口頭弁論終結後に当時のデータを発見したとして弁論の再開を求めたが、時機に後れたものである上、ファイルのプロパティ上の更新日時を変更することが可能と解されることに鑑み、当裁判所は弁論を再開しなかった。)。」
2 最高裁昭和56年9月24日第一小法廷判決(民集35巻6号1088頁)は、一旦終結した弁論を再開するか否かは当該裁判所の専権事件に属し、当事者は権利として裁判所に対して弁論の再開を請求することができないが、裁判所の裁量権も絶対無制限のものではなく、弁論を再開して当事者に更に攻撃防御の方法を提出する機会を与えることが明らかに民事訴訟における手続的正義の要求するところであると認められるような特段の事由がある場合には、裁判所は弁論を再開すべきものであり、これをしないでそのまま判決をするのは違法であることを免れないというべきである、と判示しています。
しかし、控訴審は、ご丁寧にも、「(なお、被控訴人は本件の口頭弁論終結後に当時のデータを発見したとして弁論の再開を求めたが、時機に後れたものである上、ファイルのプロパティ上の更新日時を変更することが可能と解されることに鑑み、当裁判所は弁論を再開しなかった。)。」とのなお書きがあります。おそらく、控訴審裁判所は、裁判所に弁論の再開を申し立てる前に、判決文がほぼ完成しており、弁論の再開を申し立てられるや、急ぎこの記載を加え、予定どおりの言渡期日に、判決を言い渡したのでしょう。
ところで、控訴審が重要な書証の成立について第1審の判断を覆す場合にその署名部分の筆跡鑑定の申出をするかどうかについて釈明権の行使を怠った違法があるとした判例として、最高裁平成8年2月22日第一小法廷判決(判タ903号108頁)があります。設例の事案は、裁判所の釈明権の行使が問題となった事例ではありませんが、重要な書証の成立について第1審の判断を覆す場合には、裁判所は、それなりの対応をせよ、という最高裁の考え方は、設例の事案にも当てはまります。
そして、控訴審の判決を一読して、直感的に思ったところは、判決において、「有力な証拠方法となり得る」ものがあるはずなのに、それを提出できないということを、被控訴人を敗訴させる重大な理由とするのであれば(判決までに見つからなかったのであれば、裁判の仕組み上、被控訴人が不幸であったと言い切っても仕方ないとしても)、①ちょっとだけ時間をとって、被控訴人側が見付けた新証拠を調べてみる機会を作ってもよいのではないか、それどころか、②「時機に後れた」と実のない建前論を振りかざし、見もしないで、偽造の可能性を指摘するなど論外ということでした(文書・準文書の偽造の可能性は、書証全般につきまとう問題であって、そのものを実際に見て、個別具体的に検討するほかないはず。)。
3 ところで、弁論の再開について、最高裁判決の前記建前論はともかく、「ほとんどの再開は、裁判官が、判決を書こうとしてから、必要な主張の一部が書けていたのに気付くことによってなされる」とされ、「もしも結論が変わりうるのであれば、私は、この事案でも、再開を認めたかも知れない」などと裁判官経験者が述べるところが(瀬木比呂志『民事訴訟法』230頁[2019年、日本評論社])、大方の裁判官の実際であろうと思われます。
また、時機に後れた攻撃防御の却下については、裁判官経験者は、「実際にこの規定により、却下に至る例が少ないのは、……、裁判官は、程度の悪い時機の後れた主張・立証についてのみに限定しているからであろうと思われる。」(「裁判官と弁護士とを経験して」現代民事法研究会『民事訴訟のスキルとマインド』482頁[2010年、判定タイムズ社])とか、「口頭弁論終結直前における書証の提出…についてはいずれにせよ取るに足りない書証の場合が多い(敗色濃厚な当事者が不要なものを提出する例が多い)」(瀬木『民事訴訟法』292頁)などと言われます。このことも、大方の裁判官が、そうなのではないかと思います。
つまり、立法論・制度論(民訴法156条)、つまり建前論はともかく、実際の措置として、弁論の再開をしないでそのまま判決をするとか、時機に後れた攻撃防御方法として却下するというのは、裁判官としても、もはや結論が変わることはないとの確信に至っている場合であって、程度が悪いとか、取るに足りない主張・立証であると考えた場合でしょう。
4 私は、弁護士の業務を始めてから30数年を超えましたが、一度だけ証拠の申出を時機に後れた攻撃防御方法として却下されたことがあります。
裁判長が、公開の法廷において平然と、そもそも訴え提起が弁護士ぐるみの愚行であるかのように述べる審理においてでした(札幌高裁平成19年(ネ)213同20年5月16日判決。この判決は、後に紹介する最高裁平成21年10月23日第二小法廷判決に破棄されました。)。
この札幌高裁判決の中には、次のとおり、本件訴訟の原審と同様の説示部分があります。
「控訴人は、摘示事実3について、証拠によれば、被控訴人の介護職員が▽▽を殴ったことはあり得ない旨主張する。しかしながら、控訴人がその根拠として提出する証拠(甲186ないし199)は、時機に後れた攻撃防御方法として却下されており、それ故、被控訴人北海道新聞社らの反論、反証もなされておらず、これをもとに摘示事実3の真実性を判断するのは相当でない。なお、仮に上記証拠により摘示事実3の真実性が否定されたとしても、取材時に行った裏付け調査が事実確認の方法として相当なものであれば、被控訴人北海道新聞社らの不法行為責任は否定されるところ、前記認定のとおり、被控訴人北海道新聞社らの事実確認の方法は相当なものと認められるから、いずれにしろ、控訴人の上記主張には理由がない。」
「ファイルのプロパティ上の更新日時を変更することが可能と解される」と説示する原審と同様、時機に後れたものであるとして証拠調べの機会を与えないでおきながら、判決理由の中では、実質上、その証拠価値を否定しておくかのような説示である。
5 提訴から10か月近く経過した第5回口頭弁論において主張された相殺の抗弁につき、時機に後れた攻撃防御方法であるとして却下した判断が違法であるとされ、取り消された判決として、東京地裁平成27年12月14日判決(判時2372号33頁)があります。
この事件の控訴審は、東京高裁平成29年4月27日判決(判時2372号25頁)の中に、「(原審は、控訴人からその旨の指摘を受け、慌てて弁論終結をしたものである。)」と控訴人の主張を記載しています(「事実及び理由」第2の2「(当審における控訴人の主張)」の「(3)相殺の抗弁を却下した原審の判断は違法であることについて」)。控訴審が民訴法159条1項による却下の可否を判断する上では必要ではない控訴人の主張部分を、あえて判決文中に括弧書きで記載してます。第1審の判断が誤りというだけではなく、よほど酷いものであることを言っておかなければならないと考えたからと思われます。
裁判所が、その確信した結論(実は思い込み)に固執した挙げ句、当事者の提出しようとする攻撃防御方法を、程度の悪い、取るに足りないと決め付け、過度な早期結審を図ろうとする目に余る例が実際にあるということです。
6 ところで、日本の民事裁判官について、「視野はあまり広くないが、丁寧で緻密な仕事をしようという志向」があったと述べられる(瀬木『民事訴訟法』612頁)。
一般論・抽象論としては、全くそのとおりであると考えます。
もっとも、ここから始まり、この著者が、「最高裁判所が、審理不尽等の用語を用いつつ、実際上は原判決の事実認定を論難して破棄しているに等しい判断を行うことがままあった(原判決の事実認定がおかしいと思うと、我慢ができなくなってつい手が出る)。しかし、法律審がこれを行うのは、危険なことである。」と言い切ることには、賛成できない。私の経験限りであるが、早期の事件処理を過度に意識したり、判断に関する過信に行き過ぎるおかしな高裁判決に遭遇することもなきにしもあらずであって(属人的に現れることが多いように思われる。)、最高裁において、我慢ができなくなったら、ぜひ手を出してほしい、というのが当事者から依頼を受けた弁護士の実感です。
この点については、「専門的な知識にわたる経験則」に関わる判例との関係で述べられているものではあるが、「このような扱いは、このような扱いは、個別事件の救済のために最高裁が事実審の事実認定に介入する機会を認めるもので、上告制限を掲げた改正法の趣旨には沿わないが、高裁判決の実情を踏まえると、このような原判決破棄の途を設けておく必要は否定し得ない」との見解(新堂幸司『新民事訴訟法[第6版]』602頁[2019,弘文堂])に共感を覚えます。
7 横道にそれますが、先に紹介したの西川文献では、矢口洪一元最高裁長官の次のような発言が紹介されています。
「率直に言って、事務総局には、いい人材を集めています。事務総局と、研修所の教官と、最高裁調査官、その三つは、いずれも一番いい人材を集めている。その功罪は問われるでしょう。けれども、いい人材でないと、国会なんかはまだいいですが、大蔵省など行政官庁と折衝するときに、対等に折衝できないんです。(中略)大体、そういうことのできる人は、裁判もできるんです。裁判しかできないのでは、困るんです。」「私には裁判官を長く務めることが、裁判官として大成する道だとは、どうしても思えない」
「裁判は、まあ何とかできるが、事務は駄目だという人はいますが、事務はできるが、裁判はできないという人は、不思議にいませんね。」
「私が何かの役に立ったとすれば、これは非常に逆説的なことですが、あまり裁判をしなかったということでしょうか。それは、朝から晩まで裁判をしておったら、得てして視野がせまくなってしまう」
8 現役裁判官(発言当時)からは、【客観的証拠のない誠実な態度の本人の供述の評価】と題するエピソードとして、「私としては、証拠のない誠実な本人を信用したいと思うのですが、あまりにも証拠がなさ過ぎました。何かもう一つでも裏付けるものがあれば、認容できたのになあ、といまだに思っている事件です。」などと公言されています(判タ1232号20頁・研究会「事実認定と立証活動」[2007年])。
裏返せば、客観的な証拠がなくとも、正しい心証は採れるとの表明にほかならないであろう。相手も含め生のままの当事者には裁判官よりは近い状況にある者としては、この表明は、そのとおりであるとすれば、ギフテッドの特殊能力によるものとしか考えられない。
しかし、私の経験の限りであるが、現実的な問題は、これf“神技”であるはずなのに、同様の発言をされる方々が、思いのほか多数いらっしゃったということです。
9 私も、第1審で勝訴したものの、控訴審で逆転敗訴したという経験があります(札幌地裁平成10年1月29日・判タ1014号217頁、札幌高裁平成11年2月9日・判タ1087号203頁)。
この訴訟では、当該ゴルフ場で採用されていた予約不要のプレーシステム及び特別ゲスト枠が当該ゴルフ会員契約において保証されるべき本質的中核的な価値を有するかどうかが争われたところ、結論の当否はともかく、控訴審の合議体は、ゴルフを嗜まない裁判官ばかりで構成されていたと推察され、高額のゴルフ会員権を購入する者が有するゴルフプレーに係る優遇についての価値感、会員権を購入する際に重視する取引価値に関する認識・理解が、第1審裁判官のそれとは質的に異なっており、優遇措置についての価値認識を大きく異にしていたようです。
ただ、この訴訟は、契約に付随するものについての規範定立に関わる法律問題が絡む案件でもあるところ、控訴審の審理においては、それぞれ申出た関係者の証人尋問が実施され、言った言わない化しており、敗訴した当方としても、判決結果には納得できないものの、やるべきことをやり尽くしたという感じがありました。
ちなみに、もう随分と前から、判決書の説得力・敗訴者の納得については、随分前からの重要なテーマのようです(遠藤賢治「民訴法および民訴実務が判決書に期待するものはなにか」判タ1222号40頁[2006年])。
しかし、死亡した本件契約書の名義人が本件契約書を作成したものではないと判断されるなら、被控訴人が偽造したというほかないことになるが、偽造者の汚名を着せられたままとなった被控訴人としては、一般論で抽象的に縷々説示が示された控訴審判決には、被控訴人としていささかも「納得」を感じ得る点はなかったのです。
10 自由心証主義にも限界があるとはいっても、説示の老巧な書きぶりによって自由心証の領域内に埋没すると、たとえ常識外の判断であっても、単なる事実問題として上告審の手続から外れてしまいかねません。
最高裁平成21年10月23日第二小法廷判決(判タ1313号115頁、判時2082号38頁・「最高裁民事破棄判決等の実情」)は、特別養護老人ホームの入所者に対して虐待行為が行われている旨の新聞記事がこの施設の職員らからの情報提供などを端緒として掲載されたことにつき、この施設を設置経営する法人が、複数の目撃供述等が存在していたにもかかわらず、虐待行為はなく情報は虚偽であるとしてこの職員らに対してした損害賠償請求訴訟の提起が、違法な行為とはいえないとされた事例です。
原審(札幌高裁平成19年(ネ)213号同20年5月16日第2民事部判決)が、本訴の提起が違法であるとしないで法人の同職員らに対する計画的な嫌がらせ行為が組織的に行われたなどと誤った認定をして反訴請求額の全額を認容していたなら、単なる事実認定としては損害額算定の誤りがあり認容額が大幅に異なってくるとまではいえないとされ、不受理決定がされたかもしれません。
つまり、先に述べたように訴え提起が弁護士ぐるみでの愚行であると思い込んでいた裁判長が、最高裁判所の判例(最高裁昭和63年1月26日第三小法廷判決・民集42巻1号1頁、平成11年4月22日第一小法廷判決・裁判集民193号85頁)に相反する説示に踏み込んでしまったのでした(まずは裁判官に任官されて10年目辺りで、最高裁裁判官を補佐するスタッフとされる最高裁調査官を経験した裁判官であれば、 第1審、2審の判決文を詳細に吟味する仕事を経験しており、決してこのような踏み込などしないでしょう。「上告受理申立て理由書」)。
ちなみに、差戻し後の控訴審(札幌高裁平成21年(ネ)第387号同22年5月25日第3民事部判決)では、きっちりと8掛けの認容額が認められました。
なお、差戻し後の控訴審において、受命裁判官(左陪席)から強力な和解の勧試があったが、的外れで和解に応じるべき状況にはなかった。最後の和解期日は、陪席裁判官に任せたままにせずに、裁判長が自らひとりで担当され、円満に打ち切られています。
冒頭で述べたとおり私は控訴審の審理に関与していないが、訴訟記録で見る限りの考えではあるが、設例のモデルの事案であれば、控訴審裁判所において、早々に形成した心証に固執しないで、左陪席に丸投げせずに、裁判長自らが、長年の経験を生かし、老巧な対応をすれば、和解による解決も十分可能であったように思われます。