「温めはセルフです」と言われた夜に考えたこと
――仕事が軽くなる社会で、重くなる責任
先日、コンビニエンスストアで弁当を購入し、「温めてください」と頼んだところ、「温めはセルフです」と告げられた。
今では珍しいことではない。頭では理解している。それでも、その一言が、なぜか心に残った。
仕事が、静かに変わってきている――
そう感じたからだ。
店内に設置された電子レンジの前に立ち、操作方法を探す。
何分温めればよいのか分からず、商品の表示を確認する。
後になって、QRコードを読み取れば自動設定される仕組みがあることに気づいた。
便利なはずの合理化が、初めて使う者にとっては、かえって判断を要求する。
仕事が「軽く」なったはずなのに、戸惑いはむしろ増えている。
さらに印象的だったのは、店員の対応だった。
必要最低限の言葉のみ。質問を挟むと、柔軟に応じるのではなく、まるでリセットされたかのように、最初の確認からやり直す。
これは個々の接客態度の問題ではない。
仕事が細分化され、判断と責任が意図的に削ぎ落とされている構造の表れだろう。
別の日、出張先のホテルでは、フロント対応を外国人スタッフが担っていた。
これも今や珍しくない。
多くの場合、こうした変化は「人手不足」という言葉で説明される。
だが、本当にそれだけだろうか。
日本社会では、仕事が次第に「誰にでもできる形」に再設計されてきた。
判断を要しない。責任を負わない。マニュアル通りに進めればよい。
その結果、仕事は確かに軽くなった。
しかし同時に、別のものが重くなっている。
それが「責任」だ。
難しい仕事を担うためには、二つの要素が必要だ。
一つは、知識や経験、判断力といった客観的能力。
もう一つは、面倒でも引き受ける姿勢や、失敗を恐れず責任を負う覚悟という、主観的意欲である。
このどちらが欠けても、現実には「できない」のと同じだ。
能力があっても、判断を避け、責任を回避する行動が常態化すれば、社会としては「難しい仕事ができなくなった状態」と言わざるを得ない。
もちろん、これは個人の怠慢の問題ではない。
現在の多くの職場では、責任は重いが権限は乏しく、失敗は許されないが成功しても評価は曖昧だ。
この構造の中で、主体的に考え、決断する意欲が削がれるのは自然な帰結だろう。
結果として、判断を伴わない仕事だけが残り、
判断を要する現場は、外国人労働者やAI、あるいは一部の限られた人材に委ねられていく。
注目すべきは、外国人スタッフが単なる「代替要員」ではない点だ。
多言語を操り、複雑なシステムを使いこなし、現場で判断を重ねている。
日本人が「面倒だ」「責任を取りたくない」と手放した仕事を、彼らは着実に自らの能力として蓄積している。
一方で、多くの日本人は「考えなくてよい仕事」へと配置されつつある。
これは効率化の名を借りた、現場力の空洞化である。
さらに深刻なのは、その価値観が次の世代に引き継がれることだ。
判断しないこと、責任を負わないこと、面倒を避けることが「合理的で賢い選択」として学習されれば、挑戦する力そのものが育たなくなる。
この問題は、やがて法務やコンプライアンスの領域にも影を落とす。
判断できない現場、責任の所在が曖昧な組織は、必ず紛争を生む。
多くのトラブルは、悪意よりも、「考えないこと」「決めないこと」から生じる。
思考停止こそが、現代における最大のリスクである。
「温めはセルフです」という一言は、些細な出来事に見える。
しかしそこには、日本社会が仕事と責任をどう扱ってきたかが、静かに映し出されている。
無難な説明で安心することは容易い。
だが、その先にある「考えない社会」を、私たちは引き受けられるのだろうか。
法律家として、そして社会の一員として、この問いを投げ続けたい。







成熟社会はなぜ「不器用な主人公」を求めるのか
2025年10月17日