アウトサイダー型主人公が映す、成熟社会の自己像
近年のテレビドラマには、組織の主流から一歩距離を置いた刑事や教官が、繰り返し主人公として描かれている。一見すると無愛想で冷淡だが、決定的な場面では人情を捨てない人物像である。
この種のドラマは、制作側の安易な成功モデル依存と評されることもある。確かに、過去に視聴者の支持を得た人物像が反復されている側面は否定できない。しかし、それだけで説明するには、このフォーマットはあまりに息が長い。
現代社会は、合理性と手続きを重視する構造を持つ。正しさは感情ではなく、説明可能性によって評価され、個人は組織や制度との摩擦を最小化することを求められる。その結果、多くの人が「正しいと思いながらも口に出せなかった判断」や「人情として理解しながらも従わざるを得なかった結論」を、日常の中で積み重ねている。
アウトサイダー型主人公は、そうした未処理の感情を、現実ではなくフィクションの場で引き受ける存在である。視聴者は彼を全面的に模倣したいわけではない。むしろ、「かつてこうありたかった自分」や「理想化された自己像」を、安全な距離から重ね合わせている。
また、これらの役を演じる俳優が、若さや勢いの象徴ではなく、過去に大きな成功を経験した後の円熟期にある点も示唆的である。それは、競争の只中にいる人物ではなく、主役の座を降りた後も尊厳を保つ大人の姿を提示するからだ。
このタイプのドラマが繰り返し求められるのは、社会が未熟だからではない。むしろ、成熟し、多くを飲み込む構造になったからこそ、フィクションの中でのみ許される「人情の再確認」が必要とされているのである。
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