「温めセルフ」と外国人フロントが示す、日本社会の“仕事の空洞化”という現実
先日、セブン-イレブンで焼きそばを購入し、「温めてください」と頼んだところ、そっけなく「温めはセルフです」と返されました。
30年近く電子レンジを妻に任せきりだった私は、困惑しながら設置されたレンジの前に立ちました。何分温めればよいのかも分からず、ようやく商品のラベルに記載された秒数を見つけましたが、実はQRコードによる自動設定という、さらなる「効率化」が潜んでいたことには後で気づきました。便利なはずの仕組みが、初見ではかえってハードルになる。
ちょっと横道に逸れますが、満65歳を超えた私としては、どんな場面でも自力で生き延びられるよう、無意識に避けてきた「日常の技能」を再取得しなければ、と痛感した次第です。
何より印象的だったのは、店員の対応です。マニュアルを徹底されているのでしょうが、発せられるのは必要最低限の言葉のみ。途中でこちらが質問を挟むと、柔軟に答えるのではなく、まるでリセットされたロボットのように、また冒頭の確認事項からやり直すのです。
また、先日の東京出張では、ホテルのフロント対応を外国人スタッフが担っていました。これらはいずれも、今や珍しい出来事ではありません。多くの場合、こうした変化は「人手不足」という言葉で片付けられます。しかし、本当にそれだけでしょうか。私は、これらの出来事の背後に、**日本社会における「仕事の質の単純化と、それに伴う能力の退化」**という、より深刻な問題が進行していると感じています。
■ 「日本人は難しい仕事ができなくなったわけではない」という説明の危うさ
この種の議論では、しばしば「日本人が難しい仕事をできなくなったわけではない。単に人手不足のため、外国人やAIを活用しているだけだ」という説明がなされます。しかし、「仕事ができる」という言葉を冷静に分解してみる必要があります。
難しい仕事ができるためには、少なくとも二つの要素が必要です。
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客観的能力(知識・判断力・経験・現場の知恵)
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主観的意欲(面倒でも引き受ける姿勢、責任を負う覚悟)
このどちらが欠けても、現実には「できない」のと同じです。能力があっても、「面倒だからやらない」「責任を取りたくない」という回避行動が常態化しているなら、それは社会的には「難しい仕事ができなくなった状態」と評価されても不合理ではありません。
■ 意欲の欠如は「個人の問題」なのか
もちろん、これは単なる個人の怠慢ではありません。現在の日本社会では、難しい仕事ほど「責任は重いのに判断権限はなく、失敗は許されないが成功しても評価は曖昧」という構造を持っています。この環境で「主体的に考えろ」と言われても、意欲が生まれないのは自然な反応かもしれません。
結果として、多くの現場では「判断を要しない仕事」「マニュアル通りに処理する仕事」だけが残り、仕事そのものが意図的に、誰にでもできる**「簡単な形」に再設計**されています。
■ 外国人・AIが担い、日本人が手放したもの
この流れの中で、明確な分業が進んでいます。
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定型処理・高速処理 → AI・システム
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語学力・接客耐性・高度な現場対応 → 外国人労働者
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ルーチンワーク・補助的業務 → 日本人の多く
ここで注目すべきは、ホテルのフロントで多言語を操り、複雑なシステムを使いこなす外国人スタッフの存在です。彼らは決して「安価な代替品」ではありません。むしろ、日本人が「面倒だ」「責任を取りたくない」と手放した高度な現場を、彼らが着々と自らの血肉にしているのです。
一方で、多くの日本人は「考えなくてよい仕事」へと配置されつつあります。これは単なる効率化ではなく、日本人が本来得意としていた、マニュアルの隙間を埋める「現場の筋肉」を退化させていることに他なりません。
■ さらに深刻なのは「次の世代」への影響
このような環境で育った人々が、「判断しない」「責任を引き受けない」「面倒なことを避ける」という行動様式を「合理的で賢い選択」だと学び、その価値観が次世代に伝えられたとしたらどうなるでしょうか。
挑戦する力や、試行錯誤に耐える力といった、客観的能力そのものが育たなくなる。これは感情論ではなく、社会構造が生み出す必然的な「空洞化」です。
■ 法務の視点から見る、この問題の本質
このような「仕事の質の変化」は、やがて法務の現場にも深刻な影響を及ぼします。判断できない現場、責任の所在が曖昧な組織、そして想定外の事態にフリーズしてしまう体制は、必ず紛争を生みます。多くのトラブルは、明確な「悪意」よりも、現場の「考えないこと・決めないこと・先送り」から生じるからです。
思考停止こそが、現代における最大のコンプライアンス・リスクです。だからこそ、経営においても法務においても、「人を確保するために仕事のレベルを下げ続けるのか」、それとも「人が育つように仕事を再設計するのか」という問いから目を逸らしてはならないのです。
■ おわりに
セブン-イレブンの「温めセルフ」も、外国人が立つホテルフロントも、単なる時代の変化ではありません。それは、日本社会が「難しい仕事をどう扱うか」について、安易な道を選び続けてきた結果を静かに映し出しています。
無難な説明で安心することは簡単です。しかし、その先にある「思考を放棄した社会」を引き受ける覚悟が私たちにあるのか。法律家として、そして社会の一員として、私はこの問いを投げ続けたいと思います。






