なぜ私たちは「不器用な正義」のドラマを見続けるのか
刑事や教官が主人公のドラマを見ていると、実務家の感覚からすれば首をかしげたくなる場面が少なくありません。組織のルール、手続き、リスク管理を無視すれば、現実では簡単に立場を失う。そうしたことは、多くの視聴者も十分に分かっています。
それでも私たちは、無愛想で不器用な主人公が、最後に人を見捨てない場面に、妙な安堵を覚えます。それは、その行動が現実的だからではありません。現実では通らないと分かっているからこそ、心に引っかかるのです。
日常生活では、「正しいが言わない」「理解しているが従う」という選択を、私たちは繰り返しています。合理的であること、波風を立てないことは、社会で生きるために必要な態度です。しかし同時に、「もし許されるなら、こうありたかった」という自己像が、完全に消えるわけでもありません。
ドラマの主人公は、その自己像を代理的に引き受けます。しかも彼らは、正義を声高に主張しません。無口で、時に誤解され、どこか時代遅れにも見える。それでも要所では人を切り捨てない。その姿は、勝利の物語というより、「それでも線を越えなかった」という確認に近いものです。
興味深いのは、こうした役を演じる俳優が、今まさに上り調子の存在ではなく、かつて頂点を経験した後の人物である点です。彼らは「これから勝ち上がる人」ではなく、「勝った後に何が残るかを知っている人」として画面に立ちます。その佇まいが、視聴者に過度な比較や劣等感を抱かせない。
この種のドラマは、現実逃避ではありません。むしろ、現実をよく知る人間が、自分の中に残った感情を整理するための装置です。法やルールを否定するのではなく、その外側に置かれた人情を、静かに確かめる場と言えるでしょう。
社会が成熟するほど、声高な正義は居場所を失います。その代わりに、静かで不器用な正義が、フィクションの中で息をする。そのこと自体が、今の社会の姿を、よく映しているのだと思います。
関連記事
別稿:ルール社会における人情の居場所 ――ドラマが引き受ける感情の行方






