なぜ、経営者だけが退場させられるのか
――市場が「突出した存在」を処理する構造
近年、著名な経営者が突然その座を去るというニュースが、繰り返し報じられている。
企業は存続する。制度も変わらない。
それでも、ある瞬間に「経営者だけが席を立たされる」――この現象に、違和感を覚えた人は少なくないだろう。
不祥事や疑惑が生じたとき、責任を負うのは当然だという考え方は理解できる。だが、問題はそれだけではない。
なぜ組織や制度は温存され、象徴的存在である経営者のみが、切り離されるのか。
ここには、市場や社会が持つ「意思なき選別構造」が存在している。
市場は人格を持たない。誰かを罰しようと考えることもない。
しかし、市場は構造として、「突出した存在」を処理する方向に働く。
経営者とは、企業の意思決定を一身に体現する存在である。
強いリーダーシップは、成長局面では称賛されるが、ひとたび問題が顕在化すると、その「集中性」ゆえに、責任の集約点となる。
組織全体の問題であっても、説明可能性と収束の速さを求める市場は、最も目立つ一点に判断を集中させる。
つまり、経営者が退場するのは、個人の資質や善悪の問題というよりも、
市場が安定を回復するために選びやすい「処理点」だからである。
ここで重要なのは、この構造が善悪や感情とは無関係に機能するという点だ。
社会的評価が高かった人物ほど、期待が大きかった分、失望もまた大きくなる。
突出していたがゆえに、突出して処理される――この逆説が、現代の経済社会には内在している。
では、この流れは避けられないのだろうか。
答えは「部分的には避けられる」である。
それは、経営判断を「個人の決断」としてではなく、「制度化された判断」として構築できているかどうかにかかっている。
意思決定の過程が記録され、権限と責任が分散され、法的リスクが事前に言語化されていれば、
問題が生じた際も、処理は「個人の退場」ではなく「組織の修正」として行われやすい。
逆に、判断が属人的であればあるほど、市場は個人を切り離すことでしか、均衡を回復できなくなる。
経営者に求められているのは、潔白さの誇示でも、完璧な人格でもない。
むしろ、自らが「処理点」にならないための構造を、平時から意識的に設計しているかどうかである。
経営者だけが退場させられる社会は、冷酷に見えるかもしれない。
しかしそれは、感情ではなく構造の問題だ。
この構造を理解することは、経営者だけでなく、組織に属するすべての人にとって重要である。
なぜなら、同じ仕組みは、立場や規模を変えて、私たちの日常にも作用しているからだ。







成熟社会はなぜ「不器用な主人公」を求めるのか
2025年10月17日