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仕事が「セルフ化」する社会で、責任は誰が引き受けるのか ──セブン‐イレブンの「温めセルフ」から考える

「温めはセルフです」と言われた夜に考えたこと
──仕事が軽くなる社会で、重くなる責任

先日、セブン-イレブンで焼きそばを購入し、「温めてください」と頼んだところ、そっけなく「温めはセルフです」と返されました。
それ自体は、今では珍しいことではないのかもしれません。
私自身も、そう頭では理解しました。
けれども、その一言が、妙に心に引っかかりました。

「仕事が誰のものなのか」という感覚が、静かに変わってきている――
そんな気がしたのです。

30年近く電子レンジを妻に任せきりだった私は、困惑しながら設置されたレンジの前に立ちました。
何分温めればよいのかも分からず、ようやく商品のラベルに記載された秒数を見つけました。
しかし後になって、QRコードによる自動設定という、さらなる「効率化」が用意されていたことに気づきました。
便利なはずの仕組みが、初見ではかえってハードルになる。

何より印象的だったのは、店員の対応です。マニュアルを徹底されているのでしょうが、発せられるのは必要最低限の言葉のみ。途中でこちらが質問を挟むと、柔軟に答えるのではなく、まるでリセットされたロボットのように、また冒頭の確認事項からやり直すのです。

また、先日の東京出張では、ホテルのフロント対応を外国人スタッフが担っていました。これらはいずれも、今や珍しい出来事ではありません。多くの場合、こうした変化は、単に「人手不足」という言葉で片付けられます。しかし、それで何を補っているのでしょうか。
ここには、国籍ではなく、“組織が人を考えなくても回る部品として扱う構造”が見えてきます。

私は、これらの出来事の背後に、日本社会における、「仕事が細切れにされ、判断と責任が抜け落ちていく過程」という、より深刻な問題が進行していると感じています。

■ 「日本人は難しい仕事ができなくなったわけではない」という説明の危うさ

この種の議論では、しばしば「日本人が難しい仕事をできなくなったわけではない。単に人手不足のため、外国人やAIを活用しているだけだ」という説明がなされます。しかし、「仕事ができる」という言葉を冷静に分解してみる必要があります。

難しい仕事ができるためには、少なくとも二つの要素が必要です。

  1. 客観的能力(知識・判断力・経験・現場の知恵)

  2. 主観的意欲(面倒でも引き受ける姿勢、責任を負う覚悟)

このどちらが欠けても、現実には「できない」のと同じです。能力があっても、「面倒だからやらない」「責任を取りたくない」という回避行動が常態化しているなら、それは社会的には「難しい仕事ができなくなった状態」と評価されても不合理ではありません。
難しい仕事を引き受けるインセンティブが崩れていることは致命的に重大です。

■ 意欲の欠如は「個人の問題」なのか

もちろん、これは単なる個人の怠慢ではありません。現在の日本社会では、難しい仕事ほど「責任は重いのに判断権限はなく、失敗は許されないが成功しても評価は曖昧」という構造を持っています。この環境で「主体的に考えろ」と言われても、意欲が生まれないのは自然な反応かもしれません。

“考えないこと”が合理的になる
からです。

これは実際、法務・医療・行政・IT運用など多くの現場で起きています。

結果として、多くの現場では「判断を要しない仕事」「マニュアル通りに処理する仕事」だけが残り、仕事そのものが意図的に、誰にでもできる「簡単な形」に再設計されています。
現代企業は「優秀な人」を求めているのではなく、「事故を起こさない標準化可能な人」を求めているのです。

■ 外国人・AIが担い、日本人が手放したもの

この流れの中で、明確な分業が進んでいます。

  • 定型処理・高速処理 → AI・システム

  • 語学力・接客耐性・高度な現場対応 → 外国人労働者

  • ルーチンワーク・補助的業務 → 日本人の多く

ここで注目すべきは、ホテルのフロントで多言語を操り、複雑なシステムを使いこなす外国人スタッフの存在です。彼らは決して「安価な代替品」ではありません。むしろ、日本人が「面倒だ」「責任を取りたくない」と手放した高度な現場を、彼らが着々と自らの血肉にしているのです。

一方で、多くの日本人は「考えなくてよい仕事」へと配置されつつあります。これは単なる効率化ではなく、日本人が本来得意としていた、マニュアルの隙間を埋める「現場の筋肉」を退化させていることに他なりません。

もっとも、現在の“過剰マニュアル化”の前には、昔の“過剰属人化”がありました。
今はその反動でもあります。
だから単純に「昔の現場力へ戻れ」は危険です。

■ さらに深刻なのは「次の世代」への影響

ただ、このような環境で育った人々が、「判断しない」「責任を引き受けない」「面倒なことを避ける」という行動様式を「合理的で賢い選択」だと学び、その価値観が次世代に伝えられたとしたらどうなるでしょうか。

挑戦する力や、試行錯誤に耐える力といった、客観的能力そのものが育たなくなる。これは感情論ではなく、社会構造が生み出す必然的な「空洞化」です。
効率化社会では、“責任”だけが最後まで自動化されない(ただ、効率化が進むほど、“例外処理”を担う人間の価値がむしろ上がる。別の論点となりますので、機会を改めて論じたいと思います。)。

■ 法務の視点から見る、この問題の本質

このような「仕事の質の変化」は、やがて法務の現場にも深刻な影響を及ぼします。判断できない現場、責任の所在が曖昧な組織、そして想定外の事態にフリーズしてしまう体制、いささか皮肉めいて言うと「無責任な善人」が大量発生する組織は、必ず紛争を生みます。多くのトラブルは、明確な「悪意」よりも、現場の「考えないこと・決めないこと・先送り」から生じるからです。

思考停止こそが、現代における最大のコンプライアンス・リスクです。だからこそ、経営においても法務においても、「人を確保するために仕事のレベルを下げ続けるのか」、それとも「人が育つように仕事を再設計するのか」という問いから目を逸らしてはならないのです。

■ おわりに

セブン-イレブンの「温めセルフ」も、外国人が立つホテルフロントも、単なる時代の変化ではありません。それは、日本社会が「難しい仕事をどう扱うか」について、安易な道を選び続けてきた結果を静かに映し出しています。

無難な説明で安心することは簡単です。しかし、その先にある「思考を放棄した社会」を引き受ける覚悟が私たちにあるのか。法律家として、そして社会の一員として、私はこの問いを投げ続けたいと思います。

そして、問題は、セルフ化そのものではありません。
問題は、判断と責任の所在が曖昧なまま、利用者や現場に処理だけが移されていくことです。
日本社会は“判断責任”を嫌う方向へ最適化されすぎてはいないか。

もっとも、すべてを以前の形に戻せばよい、という話でもありません。
人手不足、コスト、効率化、外国人スタッフの増加、セルフレジやセルフサービスの普及は、すでに現実です。

その中で問われるべきなのは、
「どこまでを利用者に委ねるのか」
「どこからは事業者が説明し、責任を持つのか」
「現場スタッフに判断を丸投げしていないか」
という分岐です。

企業経営においても、法律問題においても、形式だけを整えても、実際に誰が判断し、誰が説明し、誰が責任を引き受けるのかが曖昧であれば、問題は後から噴き出します。

セルフ化は、便利さの問題であると同時に、判断と責任の設計の問題でもあります。

当事務所が重視しているのも、まさにこの点です。
問題が起きた後に、誰かを責めるだけではなく、
事前に、どこで判断が分岐し、どこに責任が残るのかを整理すること。

その整理がないまま進めると、効率化のはずが、かえって現場・顧客・経営者のいずれにも負担を残すことになります。

 

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前田 尚一(まえだ しょういち)
弁護士として30年以上の経験と実績を有し、これまでに多様な訴訟に携わってまいりました。顧問弁護士としては、常時30社を超える企業のサポートを直接担当しております。
依頼者一人ひとりの本当の「勝ち」を見極めることにこだわり、長年の経験と実践に基づく独自の強みを最大限に活かせる、少数精鋭の体制づくりに注力しています。特に、表面に見えない企業間の力学や交渉の心理的駆け引きといった実務経験は豊富です。 北海道岩見沢市出身。北海道札幌北高等学校、北海道大学法学部卒業。

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