今年、千歳市は「空港開港100年」を迎えました。1926年(大正15年)10月22日、当時の千歳村民が手造りした着陸場に、小樽新聞社の複葉機「北海」第一号が初めて降り立った日から数えて、100年の節目です。
この報道に接し、祖父が幼い父を自転車に乗せ、飛行機を見せに行ったという話を思い出しました。
祖父が父に見せたかったもの――千歳の空港100年に思う
祖父は、まだ小学生だった父を自転車の後ろに乗せ、由仁から千歳まで、飛行機を見せに行ったそうです。
「これからは飛行機が時代を変える」
そう言っていたと聞いています。
由仁から千歳までは、おおむね片道30キロほどの道のりです。当時の道筋は分かりませんが、幼い息子を自転車に乗せての往復は、一日がかりの遠出だったのではないかと思います。
父は大正15年(1926年)生まれですから、祖父と出かけたのは、初着陸より後のことです。
父が尋常小学校2、3年生くらいの頃ということですので、昭和9年(1934年)に千歳飛行場が完成した頃ではないかと思っています。
加賀から北海道へ
祖父の父、私にとっての曾祖父は、加賀国で庄屋か、それに類する立場にあったと伝わっています。しかし、借金で身上を潰したそうです。
祖父は子守に出され、小学校にも十分に通えませんでした。その後、職を求めて北海道へ渡り、「まさや」という職人の修行から始めたと聞いています。
屋根に使う薄い木の板を作り、屋根を葺く「柾屋」のことだと思われます。
祖父は、自分の腕で暮らしを立ててきた人でした。その祖父が、飛行機に時代の変化を見ていた。そして、その実物を息子にも見せようと、自転車で千歳まで出かけたのです。
当日の詳しい様子までは分かりません。それでも、その言葉と行動は、今も私の記憶に残っています。
息子には、由仁で薬局を
祖父は、父を旧制中学へ進ませました。その後は、現在の星薬科大学につながる東京の学校へ送り出しています。
当初は、父に由仁で薬局を営ませようと考えていたようです。
祖父は、学歴のある人や、自分で事業を営む人に目を向けていたのだろうと、私は思っています。
自分自身は十分に学校へ通えなかった。しかし、世の中には、学ぶことによって就ける仕事があり、知識や資格をもとに営むことのできる事業がある。そのことを、祖父なりに見ていたのではないでしょうか。
父を薬学の学校へ進ませたのも、学んだことを仕事に結び付け、由仁で暮らしを立てるという、具体的な見通しがあったからだと思います。
戦火で変わった進路
父は、東京の戦火を受けて北海道へ戻ってきました。
帰郷後は、まず代用教員になり、その後、北海道大学に入り、やがて北海道職員となりました。
祖父が当初思い描いていた薬局の道とは、違う人生になったわけです。
戦争によって進路が変わり、北海道へ戻ってから、働き、再び学び、職に就いた。短く書けばそれだけのことですが、その一つひとつには、当時の事情と、父自身の選択があったはずです。
祖父が息子のために考えた将来と、父が実際に歩んだ人生。その両方があって、今の私につながっています。
自転車の後ろに乗せて
祖父が、どこまで先の時代を見通していたのかは分かりません。
ただ、自分の暮らす土地で日々の仕事をしながら、飛行機という新しいものに目を向け、息子を連れて実際に見に行った。その行動が、私の心に残っています。
学校へ十分に通えなかった祖父は、父には学校で学ばせることに力を注ぎました。そして、父がまだ幼かった頃には、自転車の後ろに乗せて、見たことのない飛行機を見せに行ったのです。
祖父は、自分の生涯では十分に知ることができないであろう世界を、息子には見せたかったのではないでしょうか。
千歳の空港100年という大きな歴史を聞きながら、私が思い浮かべるのは、由仁から千歳へ向かう、一台の自転車です。
その後ろには、まだ幼い父が乗っていました。






