ドラマ『ダウンタイム』を見ました。
松岡茉優さん演じる天才的なオペ技術を持つ形成外科医を中心に、美容医療の世界と、そこに関わる医師や家族、それぞれの仕事や生き方が描かれています。
登場人物の誰か一人が正解として描かれているのではなく、それぞれに共感するところ、違和感を持つところがあり、いろいろな側面から自分自身を考える材料になりました。
脚本は、十一人の賊軍、極悪女王、孤狼の血、アンダルシア 女神の報復などの池上純哉さんです。
人物にその意味を説明させすぎず、選択や行動を通じて考えさせる作りも、このドラマのよいところだと思います。
なかでも気になったのが、渡部篤郎さん演じる遠山新です。
ドラマ上の年齢設定には少し若すぎるようにも感じましたが、私にはむしろ、自分とかなり近い人生段階にいる人物として映りました。
もちろん、遠山新をベンチマークにしようということではありません。
むしろ、長く専門職を続けてきた人間が、ある年齢から、何を続け、何を手放し、何を残すのか。仕事と自分との関係をどう作り直すのか。その意味で、自分自身を見直すためのチェックリストをいくつも提示してくれたように思います。
そして、もう一つ引っかかったのが、このドラマの題名である「ダウンタイム」でした。
67歳になった今、自分自身の身体にも、病気や手術、入院などによって、それまでと同じようには動けない時間が生じる可能性があります。
それを「想定外」として仕事の外に置くのではなく、身体によるダウンタイムそのものを、これからの仕事の設計にあらかじめ織り込んでおく。
これは単なる健康管理の問題ではありません。
「何歳まで働くか」ではなく、「どういう状態で働き続けるか」
そして、残された時間の中で、自分としての完成をどう追求するのか。
ドラマをきっかけに、そんなことを考えました。
「ダウンタイム」を織り込んで、仕事を続ける
遠山新は、ベンチマークではなく「チェックリスト」
美容外科医として一時代を築き、第一線を退いた後も、父として、会長として、仕事、組織、後継者、家族、そして自分自身と向き合っています。
見ている途中で、私は遠山新の年齢が気になりました。
養女を育てて医師として後継者にするまでの時間、別に実子がいること、一時代を築いた専門家であること、そしてすでに一度第一線を退いていることなどを考えると、画面から受ける印象より年齢が上でなければ、時間軸が少し窮屈に感じられたからです。
しかし、考えているうちに、年齢そのものより、なぜ私がその年齢を気にしたのかの方が面白くなりました。
67歳になった私自身と、遠山新が置かれている人生段階が、かなり近く見えたからだと思います。
もちろん、遠山新を自分のベンチマークにしようということではありません。
むしろ、長く専門職を続けてきた人間が、ある年齢に達したとき、何を考えなければならなくなるのか。
それを一つずつ問いとして示してくれる人物でした。
- まだ自分でやるべきことは何か。
- 何を手放してよいのか。
- 仕事と自分自身を同一化していないか。
- 何を後に残そうとしているのか。
- 「残す」こと自体が目的になってはいないか。
- そして、身体の変化に応じて、仕事の形そのものを変えられているか。
私にとって遠山新は、目標とする人物というより、これからの自分を見直すためのチェックリストを提示してくれる人物でした。
ドラマの「ダウンタイム」から、自分のダウンタイムへ
そしてもう一つ気になったのが、このドラマの題名です。
「ダウンタイム」という言葉は、美容医療では、施術後の腫れや痛みなどが落ち着き、日常生活へ戻っていくまでの期間などを指して使われます。
しかしドラマを見ながら、私は作品とは少し離れたところで、自分自身のダウンタイムについて考えるようになりました。
人間が長く仕事を続けていけば、身体にもダウンタイムがあります。
若いころなら、病気になれば治療して、それから仕事に戻ればよい、と考えることができました。
しかし67歳になった現在、これからも仕事を続けようとするなら、それだけでは足りないように思います。
病気を予防する。身体を鍛える。必要な診察や検査を受ける。
もちろん大切です。
しかし、それでも病気になることはあるし、手術や入院が必要になることもあります。
そうであれば、
病気にならないことだけを前提として仕事を組むのではなく、身体によるダウンタイムが生じる可能性そのものを、仕事の構造にあらかじめ織り込んでおく。
最近は、その必要を強く感じています。
健康を、仕事とは別の「生活問題」にしない
振り返ると、若いころの私は、健康と仕事をどこか別の問題として扱っていたように思います。
まず仕事がある。
その仕事を遂行するための身体がある。
身体に問題が起きれば、治して仕事に戻る。
しかし、年齢を重ねて実際に身体上の問題を経験すると、順序はむしろ逆ではないかと思うようになりました。
これからの身体条件がまずあり、その条件の中で持続可能な仕事の構造を作る。
これは、仕事への意欲を弱めるという話ではありません。
むしろ逆です。
できるだけ長く、自分の判断で仕事を続けたい。
そのためには、身体をいつまでも無限に使える資源のように扱うわけにはいきません。
仕事を身体に従属させるというより、身体と仕事を最初から一つの長い時間軸の上に置いて考えるということです。
入院を「想定外」にしない
特に考えるようになったのが、入院による業務への影響です。
一人の弁護士を中心とする法律事務所では、その弁護士が一定期間、通常どおり仕事をできなくなることの影響は小さくありません。
裁判には期日や期限があります。
依頼者との打合せがあります。
顧問先から相談が入ることもあります。
重要な判断を、弁護士本人がしなければならない場面もあります。
だからといって、「入院しない」ことだけを対策にすることはできません。
必要な治療であれば、適切な時期に受けるべきです。
そこで目指すのは、入院しても通常運転を続けることではありません。
必要なら仕事を縮退させる。
延期できるものは延期する。
止めるべきものは止める。
その一方で、案件や事務所そのものの連続性は失わない。
その状態を、入院が決まってから慌てて作るのではなく、平常時から作っておく。
案件の現在位置や期限を、自分の頭の中だけに置かない。
仕事を身体能力の限界まで抱え込まない。
「自分が休んでも、案件と事務所の連続性は失われない」状態を作っておく。
これは単なる「病気への備え」ではありません。
私には、これからの仕事の運転設計の問題に見えています。
AIも、「余力を残す」ために使う
私がAIを使う理由も、この問題と無関係ではありません。
AIを使えば、従来より短時間で多くの情報を処理できるようになります。
だから、さらに仕事を増やす。
私は、その方向にはあまり魅力を感じません。
むしろ、資料の整理、情報の検索、比較、論点の抽出、過去の情報との照合など、AIに移すことのできる前提作業を移していく。
そのうえで、
- 何を守るのか。
- 何を捨てるのか。
- いつ動くのか。
- どこまで争うのか。
最後の判断は人間がする。
AIで仕事量を増やすのではなく、人間が判断するための時間と身体の余力を残す。
AIを使う目的は、仕事を限界まで詰め込むことではなく、人間にしかできない判断のための余白をつくること。
私にとって、AIを実際の法律業務に使う意味も、次第にこちらへ移っています。
増やすより、減らして精度を上げる
若いころには、できることを増やすことが成長だった時期があります。
- 扱える仕事を増やす。
- 知識を増やす。
- 依頼者を増やす。
- 仕事量を増やす。
それによって専門家としての力をつけていく時期は、確かにあります。
しかし、同じことをいつまでも続ける必要はありません。
ある時期からは、逆の能力も必要になるように思います。
- 何を受けないのか。
- 何をやめるのか。
- 何を人に任せるのか。
- 何をAIに任せるのか。
- そして、自分は何に時間と身体を使うのか。
増やすことではなく、減らすことによって仕事の精度を上げる。
これは仕事の縮小とは少し違います。
自分が判断する価値のあるところへ、限られた時間と能力を集中させるための選択です。
私自身も、現在は新しいものを次々に増やす時期というより、すでに持っているものを整理し、削り、仕事の運転精度を上げていく時期だと考えるようになりました。
健康についても同じです。
身体を酷使して仕事量を維持するのではなく、身体を守ることによって、判断できる状態を長く残す。
こちらの方が、今の私には重要です。
「何歳まで働くか」ではなく、「どういう状態で働くか」
年齢を重ねると、「何歳まで仕事をするのですか」と聞かれることがあります。
70歳なのか。
75歳なのか。
80歳なのか。
しかし最近は、この問いにも少し違和感があります。
年齢だけを決めても、それほど意味はないのではないでしょうか。
私にとって重要なのは、
何歳まで働くかではなく、どういう状態で働き続けるか。
です。
- 判断する力を残す。
- 好奇心を残す。
- 依頼者の話をきちんと聞ける余力を残す。
- 新しいものを面白いと思える状態を残す。
- そして、自分で「これがよい」と判断できる状態を、できるだけ長く維持する。
そのためには、身体も仕事も限界まで使い切らない方がよい。
以前なら、「まだできるか」が重要だったかもしれません。
これからは、
まだできることのうち、何をやるのか。
こちらの判断の方が重要になっていくように思います。
自分としての完成を追求する
ドラマの遠山新を見ながら考えたのは、何を後に残すかということだけではありませんでした。
- 技術を残す。
- 組織を残す。
- 名前を残す。
- 後継者を残す。
それも一つの生き方でしょう。
しかし、何を残すかを先に考えるより、まず、残された時間の中で自分自身がどうありたいのかを考えたいと思います。
私なりにいえば、
自分としての完成を追求する。
ということになります。
ここでいう「完成」は、何かの完成品を作って終わるという意味ではありません。
さらに多くのものを手に入れることでもない。
- 不要なものを減らす。
- 自分が判断すべきことを見失わない。
- これまで蓄積してきた経験を使いながら、それでも新しいものを見て、自分の考えを必要なら変えていく。
- そして、その判断を支える身体と時間を残す。
その過程を続けること自体が、「自分としての完成を追求する」ということなのだろうと思っています。
だからこそ、身体の変化やダウンタイムも、仕事の外には置かない。
若いころは、身体は仕事についてくるものだと思っていました。
今は、少し逆です。
仕事の方を、これからの自分の身体に合わせて作り直していく。
それは仕事から退くための準備ではありません。
必要なときには止まり、減らし、形を変えながらも、できるだけ長く、自分の判断で仕事を続ける。
そのための準備です。
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