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医療機関のコンプライアンスとは何か――法令遵守だけでは防げない組織リスクと判断体制

 

医療機関には、医療法、医師法その他の医療関係法令を守ることが求められます。しかし、現実の問題は、一つの法令を調べれば答えが出る形では起こりません。診療上の判断、患者・家族への説明、職員の安全、個人情報、労務管理、事故後の対応が重なり合い、限られた時間の中で組織として判断することが求められます。医療機関のコンプライアンスで本当に問われるのは、法令知識の量だけではなく、問題を早期に捉え、事実を整理し、適切な判断主体へつなぐ仕組みがあるかどうかです。

医療機関のコンプライアンスは、「守るべき法律の一覧」ではない

医療機関におけるコンプライアンスというと、医療法、医師法、保健師助産師看護師法、薬機法など、関係法令を守ることがまず思い浮かびます。

もちろん、それは出発点です。

しかし、法令に違反しないよう注意しているだけで、医療機関に生じる問題を防ぎ、あるいは適切に収束させられるわけではありません。

現実の問題は、医療事故、院内事故、患者・家族からの要求、職員間の対立、個人情報の取扱いなどと、分野ごとに整然と分かれて起こるものではないからです。

一つの出来事が、診療上の問題であると同時に、患者への説明の問題となり、職員の労務問題となり、個人情報や広報の問題へと波及することがあります。

医療機関のコンプライアンスを考えるときに重要なのは、守るべき法令を増やすことだけではありません。

問題が起きたとき、誰が情報を集め、何を整理し、誰がどの段階で判断するのか。

その経路を、平時から組織の中に用意しておくことです。

1 医療機関では、複数の判断が同時に求められる

医療機関は、患者の生命・身体を扱う専門組織です。同時に、多数の職員を雇用し、個人情報を管理し、設備や取引関係を維持する経営組織でもあります。

そこで問題が起きた場合、少なくとも次のような異なる判断が必要になります。

  • 医療上、直ちに何をすべきか
  • 患者本人や家族に、誰が、いつ、何を説明するか
  • 診療録その他の記録を、どのように保全するか
  • 院内の誰まで報告し、どの会議体で扱うか
  • 行政機関その他への報告が必要か
  • 関係職員から、いつ、どのように事情を聴くか
  • 責任の有無を判断する前に、何をしてはならないか
  • 同種事故を防ぐため、どこまで仕組みを改めるか

これらは相互に関係しますが、同じ判断ではありません。

たとえば、患者の安全を確保するための緊急対応と、法的責任の有無についての判断は分けて考える必要があります。また、患者・家族に誠実に説明することと、確認できていない原因や責任まで断定することも同じではありません。

この区別をしないまま、善意やその場の勢いだけで対応すると、後から説明が食い違い、記録との不整合が生じ、当初の問題とは別の不信を招くことがあります。

2 「現場で解決する」だけでは足りない

医療現場では、医師、看護師その他の医療従事者が、それぞれ専門的判断を重ねています。現場の判断を尊重することは当然です。

しかし、現場だけで処理してよい問題と、管理部門や経営者に引き上げるべき問題とは、区別しなければなりません。

一見すると小さな苦情でも、その背景に、診療経過への疑問、職員の説明不足、患者情報の取扱い、長期間にわたる職員との対立などが重なっていることがあります。

反対に、声が大きく要求が強いというだけで、すべてを重大な法的紛争として扱う必要もありません。

重要なのは、相手の言葉の強さだけで判断するのではなく、

  • 何が起きたのか
  • 何が確認でき、何がまだ確認できないのか
  • 医療上の問題と、それ以外の問題をどう分けるか
  • 放置した場合、どこへ波及するのか

を整理することです。

現場から管理者への報告が遅れれば、組織として選べる対応は狭くなります。他方で、経営者が早い段階から細部に介入し、事実確認前に結論を示すことも、問題を複雑にしかねません。

現場、管理部門、経営者、外部専門家の役割を分け、その間をつなぐことが必要です。

3 患者・家族への対応と職員の安全は、対立するものではない

医療機関には、患者の権利と尊厳を尊重し、必要な医療を提供する責務があります。

一方で、暴言、暴力、威嚇、長時間の拘束、同じ要求の執拗な反復などにより、職員の安全や就業環境が損なわれる事態を放置することもできません。

この場面を、単純に「患者側に寄り添うか」「職員を守るか」という二者択一にしてしまうと、判断を誤ります。

診療の必要性と緊急性、行為の内容と程度、これまでの経過、患者との信頼関係、代替的な医療提供の可能性などを整理し、対応を段階化する必要があります。

厚生労働省は、2019年の通知において、応招義務が医師個人の国に対する公法上の義務であることを明確にするとともに、診療に応じないことが正当化されるかについて、緊急性、診療時間、患者と医療機関・医師との信頼関係などを踏まえた考え方を示しています。

したがって、患者の要求である以上すべて受け入れなければならないということでも、迷惑行為があれば直ちに診療を打ち切ってよいということでもありません。

個別の事情を整理したうえで、警告、対応窓口の限定、複数名での対応、記録化、警察との連携、診療関係の見直しなどを段階的に検討する必要があります。

4 個人情報は、「漏らさない」だけでは守れない

医療情報は、本人に対する不当な差別や不利益が生じないよう特に慎重な取扱いを要する情報です。

電話で患者の知人を名乗る者から、病状や退院予定を尋ねられた場合だけが問題になるのではありません。

  • 院内での会話や画面表示
  • 電子メールやチャットによる情報共有
  • 外部委託先やクラウドサービスとの関係
  • 職員の私物端末やSNS
  • サイバー攻撃や端末の紛失
  • 生成AIサービスへの入力

など、情報が動くあらゆる場面を対象として考える必要があります。

とりわけ生成AIは、文書作成、記録の要約、説明文の作成などに有用ですが、入力した情報がどこで処理され、保存され、再利用される可能性があるのかを確認しないまま、患者を識別できる情報を入力することは避けなければなりません。

「職員が気をつける」という注意だけでは足りません。利用できる機器・サービス、アクセス権限、持出し、委託先の管理、事故発生時の報告経路まで、組織として定める必要があります。

5 職員間の問題も、医療安全と切り離せない

医療機関における労務問題は、一般企業と共通する面を持ちながら、医療安全とも密接に関係します。

長時間労働、ハラスメント、人員不足、職種間の対立、上司に意見を言いにくい環境は、それ自体が労務上の問題です。同時に、異常や疑問を報告できない組織をつくり、医療上のリスクを増幅させることがあります。

事故や苦情が起きた後、原因を特定の職員の落ち度だけに求めると、組織上の問題が隠れます。他方で、「組織の問題」であることを理由として、個々の行為や責任を曖昧にしてよいわけでもありません。

個人の行為、業務手順、指揮命令系統、人員配置、職場環境を分けて検討し、再発防止と適正な人事労務上の対応を両立させる必要があります。

6 事故直後には、まだ責任の結論を出さない

医療事故や院内事故が起きた直後は、患者への対応を最優先しながら、証拠となる記録や物品を保全し、関係者の記憶が薄れないうちに事実を把握する必要があります。

この段階で重要なのは、責任を否定することでも、直ちに全面的な責任を認めることでもありません。

まず、

  1. 患者の安全確保と必要な医療対応
  2. 管理者への報告と対応窓口の設定
  3. 診療録、看護記録、画像、機器その他の資料の保全
  4. 時系列と関係者の認識の整理
  5. 患者・家族への説明内容と説明者の調整
  6. 法令上・制度上必要となる報告の確認
  7. 保険会社、関係機関、外部専門家との連携

を進めることです。

責任についての結論を急ぐと、その後に判明した事実との間に齟齬が生じます。反対に、法的責任が確定していないことを理由に、説明や組織内の共有まで止めれば、不信を深めることになります。

説明、謝罪、原因分析、法的責任の判断は、互いに関係しますが、同じものではありません。この区別を保ちながら進める必要があります。

7 コンプライアンス委員会を置くだけでは、仕組みは動かない

委員会、規程、マニュアルを整備することには意味があります。しかし、それらが存在するだけで、コンプライアンスが実現するわけではありません。

平時から、少なくとも次の点を確認しておく必要があります。

  • どのような事象を報告対象とするか
  • 誰が最初の情報を受けるか
  • 緊急時に通常の指揮命令系統を飛び越えることができるか
  • 診療上の判断と、経営・法務上の判断を誰が担うか
  • 事実確認の担当者と最終判断者をどう分けるか
  • 外部専門家へ相談する基準と時機
  • 判断の経過をどのように記録するか

委員会があっても、情報が上がらなければ機能しません。情報が集まっても、判断主体と期限が決まっていなければ、結論は先送りされます。

コンプライアンス体制とは、組織図の中に一つの箱を増やすことではありません。問題を発見し、整理し、判断し、実行し、その結果を検証する一連の経路をつくることです。

8 医療機関のコンプライアンスは、経営判断そのものである

法令違反を避けることだけを目的とすると、コンプライアンスは現場に負担をかける規制のように見えます。

しかし、適切な仕組みは、現場を萎縮させるためのものではありません。

職員が迷ったときに相談でき、重大な問題を早く経営側へ届け、現場だけに責任を背負わせず、経営者が必要な情報に基づいて判断するための基盤です。

医療機関では、患者の利益、職員の安全、専門職としての判断、法的責任、組織の継続という複数の要請が交差します。どれか一つの価値だけを掲げても、現実の問題は解けません。

必要なのは、まず事実と関係性を整理し、何を守るべきか、どの危険を引き受けるのか、誰が最終的に判断するのかを明らかにすることです。

法律は重要な判断基準です。しかし、法律の条文を示すだけで、個別の場面における最善の対応が自動的に決まるわけではありません。

医療機関のコンプライアンスとは、法令を守るためだけの仕組みではなく、難しい局面で、組織が判断を誤らないための仕組みであると考えています。

当事務所が法律問題に向き合う際の判断基準と実務姿勢については、次のページでご説明しています。

法律問題では、何を基準に判断するのか

 

当事務所では、
目の前の法的正解だけではなく、
初動・情報整理・損失配分・将来維持可能性を含めた現実判断を重視しています。

実際の紛争や経営判断では、初動で何を整理し、何を守り、何を優先するかという判断が、その後の結果を大きく左右します。

そのため、法律的な見通しをご説明するだけでなく、状況や選択肢を整理し、依頼者の方が納得して判断できるよう支援することを大切にしています。


旧稿について

本稿は、2010年に北海道医療新聞社発行の冊子へ寄稿した記事を出発点としつつ、その後の法制度、行政指針、情報環境及び医療機関を取り巻く状況の変化を踏まえ、別の立脚点から新たに構成したものです。

当時のQ&A形式の記事は、次のページに掲載しています。

医療におけるコンプライアンスの重要性と業務上、身近な法律問題への対応法〔2010年寄稿〕

※本稿は一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案について法的判断を示すものではありません。


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参考にする公的資料

  • 厚生労働省「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」(令和元年12月25日)
  • 個人情報保護委員会・厚生労働省「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイダンス」
  • 厚生労働省「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン」
  • 厚生労働省「医療事故調査制度について」

前田 尚一(まえだ しょういち)
弁護士として35年以上の経験と実績を有し、これまでに多様な訴訟に携わってまいりました。顧問弁護士としては、常時30社を超える企業のサポートを直接担当しております。
依頼者一人ひとりの本当の「勝ち」を見極めることにこだわり、長年の経験と実践に基づく独自の強みを最大限に活かせる、少数精鋭の体制づくりに注力しています。特に、表面に見えない企業間の力学や交渉の心理的駆け引きといった実務経験は豊富です。 北海道岩見沢市出身。北海道札幌北高等学校、北海道大学法学部卒業。

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